あの娘ぼくがブログ書いたらどんな顔するだろう

3歩進んでは2歩下がってしまう25歳ゲイのブログ

宇多田ヒカルに寄せて

宇多田ヒカルの音楽を聴いているとき
ふと心が軽くなる瞬間がある
それは良い意味で聴き手になにも押し付けない、
悪くいうと期待しない、そんな姿勢を彼女の音楽から感じるときだ

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彼女の音楽は彼女が彼女自身のために書いている
極めてパーソナルなものであるため、そこには
街に流れる安っぽい応援歌のようなメッセージングはなく
アルバムを聴いているとまるで彼女の日記を覗いているような感覚に陥る
そしてそこには誰に何を求めるわけでもない
「諦め」または「祈り」にも似た言葉が並んでいる
その嘘のない彼女自身に向けられた言葉はボクのもとに
「メッセージ」という力の入ったものではなく「気づき」としてふいに現れる

「慣れない同士でよく頑張ったね 間違った恋をしたけれど間違いではなかった」「悲しいことはきっと、この先にもいっぱいあるわ My darling,stay gold 傷つくことも大事だから」「夢も変実も目を閉じれば同じウソもホントウも口を閉じれば同じ」「泣いたって 何も変わらないって言われるけど 誰だって そんなつもりで泣くんじゃないよね」「誰かの願いが叶うころ あの子が泣いているよ」

彼女の一貫して求めないスタンスはどこからくるんだろうか
ヒントは彼女の著書、”点”の中の彼女の言葉にある

――――――

有名であることは、いやなことにしか思えなかった。
いろいろな目的の人がいつも私達のまわりには、たくさんいて、
私はその人たちが嫌いだった。
お金や人間関係のトラブルが絶えなかった。
親は普通の生活をしていなかったし、激情的で、世間からいつも
異分子扱いされていた。
娘の私からしても、なんて非常識な人たちなんだって
理解に苦しむことが多かった。
夜、寝る前に、「明日から日本に帰ることにした」と告げられ、
クラスメイトにお別れも言えないまま引っ越す、みたいなことが普通にあった。
そんな親に対して自分の無力さを思い知らされ続けた私は、
おとなしくて頭の良い子に育った。
トランプカードで神経衰弱、パズル、読書、お絵描き、
空想ごっこ、ぬいぐるみと遊ぶのが好きだった。
だんだんくやしい時も悲しい時も、泣かない子になった。
母の前で泣くと、ひどく怒られたから。
悲しくて泣いてるのは私なのに、なぜか彼女の方が傷ついて、泣いて、私を責めた。
すると私は泣く気が失せた。泣くよりももっと深い悲しみを知った。
彼女に悪気は無いんだ、って分かってしまう自分が、
体の芯からひんやりしていくようで、こわかった。
親の前ではもちろん、人前では決して泣かないことにした。
慣れれば、音を立てずに泣くのは案外簡単だった。
ドアの開け閉の際に音を立てないよう注意するのと同じだった。
9才の時、怒りとか不満といった感情が完全になくなっていることに気づいた。
外界になにも求めなくなっていた。
(わたしの求める救済はそこにはないんじゃないかな・・・。)
そう感じはじめると、外界の出来事にいちいち心を振り回されるのは、
時間とエネルギーの無駄にしか思えなかった。
「間違っている」と感じる他人の行動や世界のあり方を、
理解しようとするのをやめた。「どうして?」なんて問うことは、
無意味に思えた。外の世界のことは、ただ「知る」だけでよかった。
自分の内側の世界のほうが大事だった。
そこには、自由があった。想像と思考は無限で、最強だと思った。
うちに秘めた想いには、神聖なものが宿るようだった。
「諦め」という屍を苗床に、「願い」と「祈り」という雑草が、
どんどん私の心を覆い尽くしていった。
絶望が深くなればなるほど、この雑草もたくましさを増すようで、
摘んでも摘んでもまた生えてくる、やっかいなものだった。
でも、「願うこと」「祈ること」は、「求めること」と決定的に違う。
それは、「希望」と「期待」の違い。
それに、願いと祈りをなくしたら私になにが残るだろう。
人ではいられなくなるだろう。

ならば雑草よ、好き放題に生えるがいいっ!8才までに形勢された、私の基本姿勢です。

――――――

「求めること」を諦め、それでも「願うこと」「祈ること」は諦めきれなかった彼女
そんな彼女が救済を見つけた先はやはり「創造すること」であった

――――――

自分のことがよくわからなくなったり、
人生に悩んでもやもやした気持ちが溜まることもあるだろう。
そんな行き場の無い不安やストレスを、
遊びまくったり酒飲みまくったり女遊びしたり、カラオケで歌いまくったり、
バッティグセンターで発散するのもいいけど、
それらはその場しのぎの逃避でしかない。
いくら体が疲れても、なんか疑問が残んない? 
もやもやを振り払うたった一つの方法は、
例えば、歌を創る、文章を書く、写真を撮る、絵を描く、といった
創作活動なんじゃないか。それもごまた逃避の一つであるけど、
やみくもにエネルギーを無駄遣いするのとは大きく遣う。
創作行為って不思議。ただのストレス発散とは追って、内なるプロセスなのに、
自分とは別の、形あるものが残る。なにかを残すために「創造」するんじゃない。
「作品」は「創造」の副産物に過ぎない。自分の作品を見てそう思う。
――――――
そして彼女の「創造した音楽」はやがて「彼女をこの世界と結びつけるもの」となる
――――――
世界を自分の「内」と「外」で分別し出すと、
自然からも本能からも離れて行く気がする。
なんでもないと同時になんでもある存在になりたい。そんな感覚をずっと持ってた。
そんな救済の予感をずっと追っかけてた…。
自分の世界が無限に広がるようで、また、「一点」に向かいながら自分の存在が明瞭になっていくような軽やかな気分…。「点」って無限なんだぜ。
すでに自分はこの世界の一部なのだから、万物と共感、融合することは、
決して自己の喪失ではない。その帰途に、音楽が位置する。
「音楽は世界の共通語」なんてよく言うけど、まさにそんな感じ?
歌を歌うことは、人であるために必要なことのように思える。
メロディーは、誰かの心の原風景。懐かしい場所からのメッセージ。
リズムは、死へ向かう生命の行進の音。歌は祈り、願い、誓い。音楽は、慈悲。
それ以上、音楽の難しいことは知らなくてもいいと思う。
――――――

祈るように、自分と世界を結びつけるために創造してきた宇多田ヒカル
2010年8月9日に突然音楽活動を休止することとなった彼女ですが
ついに春に活動を開始するそうです、アルバム制作も進んでいるとか
いままで、自分を救うために創造してきた彼女が結婚、出産を経て
どんな音楽を作るのかとてもとてもとても楽しみでたまらないです

www.oricon.co.jp

 

彼女の音楽をまた聴ける幸せをかみしめながらこの記事を書きました
にやにやが止まらなかったです


ノリマキ